311の大震災から11年が過ぎましたね。いろんな方のコメントにいろんな思いが浮かびます。
続いている避難生活、行方不明者の方の多さにも驚きます。
あれからの11年後に、チェルノブイリが軍事攻撃されるなんて想像もしていませんでした。
核、原発、災害を生み出す、ライフスタイルと社会の構造、システムについて改めて考えさせられます。以前に原爆をテーマに、ドキュメンタリーを製作していましたが、編集中によく聞いていた、「水声」「もうひとつの時間」という曲を思い出して、耳を傾けています。
haruka nakamuraさんのピアノの音に、日和山からの風景や食糧支援で出会った人、変わろう変えようと一緒に動いた友人を思い出しつつ、
「自分たちはちゃんとほんまに変わっていけてるのか?」
という問いが頭に浮かびます。ということで「種を蒔くデザイン展」B面担当。
“ 未来の八百屋 ” をテーマにまた散文と風景をシェアさせてください。
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未来の八百屋の『働き方』〜後編1〜
////目的について////
前回の投稿まで、今やってる取り組みの一つ、畑と八百屋を半々に融合させた働き方、「思い」を書いてみました。
後編は、そういう取り組みを通してどこに向かっていくか、です。
今回のようにある若者が、畑や八百屋で働く時、そこにいる大人が何を見て、どこを目指しているか感じると思います。
最近は、八百屋さんや農家さんという職業を「やる」ことが目的だったり、お金を稼ぐことや自分の人生が特別になることを目指す、個人的な方が多いです。
元々昔はオーガニックを生業にする人は、個人的なことではなく、脱原発、脱農薬、反戦、反核、反格差、反差別、反環境汚染という許容できない社会システムへの抵抗運動など利他的な目的でした。
良し悪しではなく、どちらも今はなぜかなかなかうまくいかず壁にぶつかっています。
新人の働き手も働いてみるとそれは感じられるかもしれません。
壁にはね返され、目的が「ブレた」現場で、新人は働きながら、どんな風に感じたりするんかなーと想像します。
どんな環境、目的やったら良いんやろうと。
同じような話で、農家さんは肉弾戦で、八百屋さんは神経戦とよく言います。
どちらも経済や気候変動に振り回され、現場はシリアスです。
振り回されて、体や神経を酷使し、健康、心、ひどい時は家族を犠牲にしてしまう。
ありがちな話ですが、こういうのも新人の目にはどう映るのかなと気になります。
これからはいずれにしてもシリアスとリラックスが両方あるような、個人的な喜びも、利他的な喜びもある、
ちょうど良い按配を見つけてくことが大事な気がします。
働き手が気持ち良く、良いことも悪いことも勉強していけるようなカタチを目指す。
突出したり目立たなくてもブレない目的がちゃんとある、そんな環境を作っていくイメージです。
そういう環境と目的のある場所で、ある若者が、畑や八百屋で、「食べること」について学ぶ。
それから社会に出ていろんな仕事に励んでいく。
そんなサイクルを積み重ねると、
「食べること」は世界の問題に通じ、「働き方」は自分力や考え方を作るといわれる中で、未来の有機の八百屋にも少しは存在意義が出てくるのかもしれません。
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(未来の八百屋の『働き方』〜後編2〜へとつづく)
写真:中部 里保
@b.riho