【 マーケットの向こう側 】vol.1 羽間農園 羽間一登(前編)

 

奈良フードシェッドと五ふしの草の共同編集で特別連載。

 

「なりわいを聴く」「作り手の暮らしを観る」ことをテーマに、街のファーマーズマーケットやファームスタンドがガイド的に寄稿するインタビュー記事です。マーケットや、地域の農家さん、関係する八百屋さん、繋がるいろんな作り手、食べ手の方々の裏側というか、奥行きに触れていただけたらと思います。ということは、1回目はぜったい羽間さんですよね。奈良のオーガニック界のレジェンド。百姓オブ百姓。旧都祁村で主にお米とお茶を作ってらっしゃるマーケットを代表する農家さんです。

 

/ 聞き手: 船尾佳代/ 写真: 中部里保/ 編集: 榊原一憲

 


 

 

「地域の人たちのやってることも理解して仲良くする」

 

__ 羽間さん、最近どんな感じですか?

羽間 働き方革命って感じですかね。働く時間、減らしてます。結婚してからは本当にそういう、暮らし優先、食事とかの時間を優先するようになって。なるべく子供できてから特にこどもと過ごす時間とかを作るために、休みを設けたりするようになりました。多少売り上げが落ちても、時間を家族のために使いたいなと。既に最初から農業ってそんなにガツガツ儲かる仕事でもないから食べていけたらいいかなっていう程度で、羽間農園16年やってきて、おかげさんで結構田畑が10年ぐらい前から増えてきて、お客さんもついてくださって、取引先も増えて。だからそういう意味ですごくありがたくて、やりくりできるようになってきたから、家族とゆっくりできる、そういう時間も作れるようになりましたよ。

__ 意外な返事がかえってきた。羽間さんといえば、一日中、田んぼや茶畑で作業している農家さんだったからだ。

羽間 最初1人でやってるときは、めっちゃ頑張って働いて野菜とか作っても、年間の売り上げが30万ぐらい。利益じゃなくて売り上げね。野菜って安いやん?うち自然でやってたからちっちゃい野菜とかばっかりで、めっちゃ働いて30万売り上げ。月2万何千円かやね。だから草刈りのバイトとかもうバンバン引き受けてそれで大体日当1万円とかを設定して、70万ぐらい稼いでやっと年間100万ぐらい。それが最初の三、四年ぐらい続いたかな。耕作放棄の田畑を借りたらまず再生するのに時間がかかって、同時進行で野菜も作ったり、ちょこちょこ取れるようになってきたお茶を手摘みとかでやって、茶工場もないし資本金5万円でスタートして、何も借金もせずに行こうと思って。くわとスコップと草刈り機だけでずっとやっていた。夜は9時くらいまで、真っ暗のなか作業してたし。でももう40歳も超えて無理もきかなくなってきたしね。

__ 笑って話す羽間さん。大変な時期を経ていいペースをつかんで、この調子でこれからがんばっていかれるのかなと思ったこちらの予想に反し、羽間さんはこう続けた。

羽間 でも、あと2割か3割くらいは減ってもいいと思ってる。やっぱり羽間農園だけがずっとうまくいっててもダメだから。僕もそうだったけど、すごい条件の悪いところからスタートって、プロでも大変なのに、新規で農業したいという人にはさらにハードル高い。そんな人には、ある程度、整備できたところを手渡したり、農業しやすい環境を整えて迎えたい。地域の中でも、もしかしたら息子さんとかが帰ってきて自分の家の持ち物である田畑をやりたいってなったときに、苦労せず引き継げるようにした方がいい。だから今の2、3割くらいは減ってもいいから、そういうことのために時間を使いたいと思ってる。

 

 

 

 

__ ご自身の農園だけがうまくいくことより、自分が学んだことや経験を、新規就農の方、若い人たちに伝えたい、次に手渡したいという思いが強くなってきたそうだ。実際、新規就農をしたい方が羽間農園に学びに来られている。

羽間 羽間農園の今のやり方は自然栽培っていう形。最初は田んぼとか不耕起でやってたけど今は耕してて、トラクターも使うし、うちのあくまでも参考程度に学んでもらって、最終自分でやるやり方っていうのは、いいとこ取りしてもらってあとは自分でオリジナルでやってもらえたら一番いいかなって思ってる。個性豊かな農家が増えたら面白いじゃないかって思ってて。慣行農法でも農薬を減らしていったりとか、微生物を入れることで化学肥料とか少なく抑えられたりとか、いろいろな発想のやり方で、とにもかくにも環境に負荷をかけない、地球を汚さないさない、もう一つは人間の体弱らせないような農法であればいいかなって。

 

 

__ そんな無農薬で新規就農したい方に何かアドバイスはありますか?

羽間 僕も昔は慣行農法とかってもう公害みたいに思ってたけども、何でも対立すると、やっぱりよくないし、対立して苦労している人たちをいっぱいみてきたから、とにかくはそれぞれの考え方はある程度許容して、それぞれの地域で嫌われないように。どうしても新規というのはよそものなんで、うちもそうやったけどやっぱ無農薬でやるっていうのは大体周りの人たちはみんないい気がしない。まず、虫がわくとか飛んでくるとか思われてる。それが事実かは置いておいて、そういうことはもう十分に配慮した上で、なるべく嫌われないように、地域の人たちのやってることも理解して仲良くするってのがポイントだと思う。農地が隣接してる人たちが困らないようにするにはどうしたらいいかなと思ったら、やっぱり草刈りを早めに早め早めにすることで、その人は草刈りをしなくて済むし、除草剤やらなくて済むし、周りの人にとってメリットが発生することがまず大事。そうすると、あいつ草はやさへんしええやつやなっていうぐらいになる。あとはあいさつするのはもちろんで、昔話を聞くとか、交流するのが大事。

今めっちゃ化学肥料とか農薬使ってるおじいさんでも昔は農薬とか化学肥料なかったから、自然のやり方のことバンバン教えてくれたりする。その土手の草を積んで堆肥にしたんやーとか。昔話聞きたいから座って聞くと、こっちのことすごい理解してくれて、なんか逆に応援してくれたりとか、昔使ってた米を干す木とか、唐箕とか、足ふみ脱穀機とかいろんなものにいただけたりした。今やってる農法は違っても、その人のいろんな話を聞くっていうのはすごい面白い。なるべく交流するのを大事に。村の行事も参加したりとか、面白い部分で繋がれたら結構、楽しいな。最初はがむしゃらに開墾だけで、なかなかゆとりがなかったけど、途中からそういう感じで地域の人との交流を楽しめるようになってきた。

 

 

「だけどやっぱりどうしても自然なことをやりたいって思って、」

 

__ 羽間さんはいつ農家になろうと思ったんですか?

羽間 大阪の街で生まれ育ったんですけど、そもそもは自然が憧れっていうのもあって、小さいとき将来の夢がもう農家になりたいって決まってたんです。もう幼稚園のときにお百姓さんになりたいって。なんでか知らんけど食べるものを作る仕事、その育てるところからやりたいって小さいときから言ってて、小学校のときも、学校帰ってから1坪ぐらいの小さい庭で野菜作ったりしてそれが趣味でした。おばあちゃんからおこづかいの500円札をもらったらそれを持って園芸店に行って種とか苗買って。500円あったら半年ぐらい楽しめるから。花咲くし、実は食べられるし。500円札もらったらもう十分楽しめるもん。学校では栽培委員会に入って、中学校は部活で園芸部に入って。学校の花壇の花を育てることがメインだったけども、裏側に畑もあってそこで野菜作ったりしてて。何か食べられるのを作ったら持って帰れるし。小さいときから、そんな農的な趣味があって、学校の部活もそんなんで。そして家から一番近い高校が農業高校最高で、そこ速攻受けて。別にすべりどめも受けるつもりもなく。そして農業高校出たらすぐ農業できるって思ってんねんけど、なかなか農業しようと思ったら畑とかはないといけないし、しかも経営的な能力とか、やっぱり高卒ではなかなかやっぱり難しいなってことが途中でわかってきて、卒業後、岐阜の農業大学校2年間の短大にいくことにして、そこである程度ちょっと経営的なこととかを勉強して。これで農業できるだろうとか思って、でも結局やっぱり農地とかどこにするとか、何を作るのとか、なかなかやっぱり見えてこなくて。北海道の富良野の農協が夏の農作業アルバイト募集してたから、卒業後、とりあえず富良野で仕事をしようと思って結局5年間住みました。このまま北海道で農業できるんちゃうかって思ってたけど、やっぱり冬の問題がどうも解決できんくて。もうとにかく豪雪地帯で3メーターぐらい積もるから冬は農業ができない。半年雪に閉ざされるから、大体農業ができるのが4月から9月。10月初めにも初雪降るかな。ということは半年で1年分稼がなくてはいけない。お世話になっていたところ15町歩(約15万平方キロメートル。東京ドーム3個分くらい)とかそれぐらいの面積を、一家族でこなしてて、それは、ほとんど大型機械の力ですごいでかい1000万ぐらいするトラクターとか植え付けする機械と収穫する機械とか、、、とにかく機械代にも何千万もかけてるから、これやっぱりちょっと現実的じゃないなっていう感じで。しかも農薬や化学肥料をバンバン使うし、やっぱり自分でやるには、自分の体のことも考えたら北海道はちがうなと。やっぱり大規模にやるならやるなりの、機械の力が結構あって、これはちょっと自分にはあんまり目指す方向じゃないな。と思っていました。

 

 

その頃、オーガニックを目指してて赤目自然農塾に行ったりとか、20歳のときに福岡正信さんとこ行ったりとか。ある程度自然な人たちのことは知ってて、でもやっぱりそれで生計立てるには難しいなって思ってて。自然農とかではなかなか量が取れへんから、売れるほどのものはできへんっていう。でもすごい生き生きとしたとしては野菜すごい美味しいし、エネルギーに満ちあふれてるからこういうものを作りたいなと思ってた。でもなかなかやっぱり経済と兼ね合いで、一旦はそうやって農協で働いて、そしたら毎月給料入るし、企業的にやるところである程度経済を回すしかないのかなって思ったときもあった。だけどやっぱりどうしても自然なことをやりたいって思って、北海道から帰ってきたときに、もう一回、赤目自然農塾行って、そこで伊川健一くんと出会った。帰ってきても仕事っていうか収入がないと困るから、親父が榛原の有機野菜作ってる会社に話をつけてくれてて、そこで2年間仕事しながら休みの日に健一くんのところに通うみたいな感じで。伊川くんのところでいろいろ教わりながら自然なやり方を模索して。有機野菜作ってる会社も、やっぱり何だかんだ言って一般の農法とほとんど考え方は変わらずハウスの中で、季節感もあまりなく、肥料が化学肥料じゃなくて有機肥料であったり、虫を殺すも農薬じゃなくて忌避剤と自然由来の散布資材をまいて。でもやっぱり本当に自然に近いのをしたいって思ったから、もう一回、赤目に行ってまた伊川くんのところに行った。彼は自然農を主軸にして、当時野菜とお茶をやってたので、何とかそれで自然農で食っていけないかなと思って、考えたところでお茶っていうのは結構いけるなっていうのがわかって。やっぱり収入を得る手段の部分はやっぱりある程度、日持ちのするもので、長く販売できる方がいいなということで。米と野菜は絶対生活の毎日の必須で、絶対外したくないから、お茶をある程度、経済作物的に育てておいて、まずは自給分をしっかり自分で作れるようになることが大事やなと。ちょうど2年ぐらい伊川くんと古民家で一緒に暮らしてて、その頃、都祁村の耕作放棄の田んぼとか、茶畑の情報を得ることができて、2007年羽間農園スタートって感じ。2007年30歳。ちょっと遅いスタートだったけど、ちょうどよかったかな。それぐらいの期間がなかったら、やっぱり自分でそういう自然なやり方でっていうのはやっぱりなかなか技術がなかったし。ちょうど耕作放棄になった茶畑があってそこを廃業者がゴミを捨てる場所としてなんか考えた場所みたいで。話聞き見に行ったらめっちゃいい場所で、そういうことを阻止したいなってちょっと正義感が。独立するタイミングとしてもちょうど今かなっていう感じもあって勢いで借りた。そこを整備しながら、2007年はもう本当に整備ばっかり。田んぼも荒れたところだったから、でっかい井草の株とかを抜いたりとか、猪にいっぱい掘り起こされてたから平らに直したりとか、そんな感じでやりながら草刈りのバイト引き受けて、そういう整備が終わったところから野菜を作り始めて。初年度からかなとかそんな感じの流れです。

 

 

 


 

(後編へつづく)